絶妙に時間を持て余している。
というのも4月末から授業が始まったものの大概授業初めの2-3週というのは退屈なものだからだ。イントロだったりその分野の概論だったり、教授の個人的なお話だったりするわけで、「じゃあ次週から始めましょうか」的な雰囲気がある。早く始めてくれ。
加えて今年度はオンラインでの授業ということもあり教授がオンラインでの授業に戸惑ったり、はたまた参加者が音声をミュートしないために授業が中断されたりと更に授業は円滑に進まない。
授業の予習はいらないので余った時間で本でも読もうかと思うが、しかし数週間後には忙しくなっていることは目に見えているので、この隙間時間を上手く使える方策を早急に考えねばならない。
とりあえず勉強らしいことはしているが、これはどうなんだ。
話は授業に戻る。
授業をする側もされる側もオンラインでの授業には慣れていないから仕方ないかもしれないが、ただでさえ前年度に比べて少ない授業回数で内容は薄く、自習のための図書館等施設は使えないのに授業料据え置きというのは、こちらの都合だけ考えれば納得いかないものである。
もちろん学事もオンラインで対応しているからその分の労力は計り知れないわけで、トータルで見たら支払っている分の授業料が浮いているという事は無いと思いたい。
オンライン授業の利点は時間の制約が小さいことにある。
大半の授業はオンデマンド授業になっており好きな時間に見ることが出来る。
当然倍速もできる。予備校なんかでは当然のごとく導入されているシステムだが、日本の大学の授業でオンデマンドというのはあまり聞かない。いやあるのかもしれないが、ともかくこれのおかげで随分の時間は節約できている。
当然、節約した時間は無駄に使っているのだが。
エジンバラ大学ではオンデマンド授業があったので自宅でも受講できたが、あの国で誰が好き好んで家の中に長時間いようと思うのか。
積極的に外出していたためあまり活用することはなかった。
オンデマンド授業を嫌う教授もいる。
相手の反応が分からないと授業が進めづらいらしい。分からないでもない。
私は個人的に毎週日曜は勉強会をしており、なぜだか私が進行係である。
1冊本を決めて指定した章を読んできて読み合わせる。
しかし自分で読んでいても見落としがちな点もあるので、誰かが読みながら解説を交えて勉強をしていくという形式をとっている。その読み進めるのが私である。
例のアレによる自粛の前から勉強会はオンラインでしておりその進行役は私であった。
だから、反応のないパソコンに向かって話すのは教室で顔を見ながら話すより無機質的で味気ないというのもわかる気がする。
しかし、個人的には反応のない相手に話すということはさほど辛くない。
ぬいぐるみに向かって話をしていたからだ。
ここだけ切り取るといかにも精神に不安を抱えているようだがそうではない。(そうではないと思いたい)
何故だか知らないが、私の家には物心ついたころからぬいぐるみが多かった。
幼稚園の頃はそのぬいぐるみを布団の周りに並べては一緒に寝るなどしたものだった。
加えて、通園していた幼稚園では1人1体のぬいぐるみを通園時に常に携行して「お友達」として愛でる文化があった。
だから、「お友達」としてぬいぐるみに話しかける行為はあまり不自然なものではなかった。
そして、何故だかたくさんあったぬいぐるみを部屋に並べては、その前で今日1日あった出来事を話していた。私の講義スタイルは既にここから始まっていた。
ぬいぐるみは決して語りかけてくることはないので一方的に話すのみである。
ぬいぐるみが一斉に洗濯に出されたときは壁に向かって話をしていたらしい。
流石の親もこれは止めたという。
私はここで「虚無」と話す能力を得た。
生来のヲタク的気質と「虚無」に向かって話をするスタイルは勉強の面では多少のメリットがあった。
大抵、ヲタクというのは自分の関心分野については饒舌になってそれを流布したがる。
そのため、その気質をもって中高での勉強では特に面白かったことなどを自宅に帰ってホワイトボードを使い、再度家族に説明するという事をしていた。
しかしながら、必ずしも家族はその内容に興味があるわけではない。
大抵は家族に無視されながら、しかしやはり「虚無」に向かって自らの学んできたことを勝手に話すのである。迷惑極まりない壊れたスピーカーである。
しかし、話ながらもその日学んだことの整理くらいはすることが出来た。
私はここで「強靭なメンタル」を得た。
一方でこのような一人よがりな話法が受け入れられるはずもない。
大学1年の頃の初めてのアルバイトは塾講師であった。講師と生徒が一対一の個別指導塾であり、生徒は他の生徒と話が出来ない一方で、講師は生徒の反応がその小さい所作まで目の前で見えて分かるというものだった。
経営側の観点からすれば、大学1年生の講師など殆ど何もできないのに等しいため重要な顧客に充てるよりは、新規顧客の開拓や専任の講師では教えない少しクセのある生徒に1年生講師を充てて1年生講師の様子を見るのだろう。
案の定私は"様々"な生徒を受け持つことになった。そして大概は私の話を聞いてくれない生徒だった。だからこそいかにして話すべきことを伝えるかという事を考える機会にもなった。因みに塾講師は1年で辞めた。
話したいことを話していればよいわけではない。
私はここで「程度」というものを得た。
失礼かつ偉そうな話だが、オンライン授業を受けていると数名の教授は「ぬいぐるみ」に向かって話をしているなと感じる時がある。
受講しているこちらの様子が分からないため延々と話し続けてしまう。
彼らは何らかの分野で傑出した能力と知識を持ついわばヲタクの中のヲタクである。
そして大抵の場合「強靭なメンタル」も持ち合わせているからこちらの声が届かない。
一方で僅かな予備校時代に視聴していたオンデマンド教材では「生徒」に向かって話をしているなと感じた。彼らもある分野においては群を抜いた知識量と能力があるわけだが、話法が異なっていた。
当然この理由は自明で、教授が研究者であり教育者でない一方、予備校講師は教育者であり研究者ではないからだ。
しかも予備校講師は扱う内容が教育指導要領にある程度従うので同質財を扱っている。
差別化するには話法がより重視されるのだ。
しかし、例のアレによりオンライン授業が主流となる中で大学の授業がより予備校形式に近づいていくのではないかと思う。
キャンパスは使えないため、密になるような期末試験は実施できない。
教室での期末試験は出来ないので各授業で小テストをしてみたり、複数回のレポートで評定を決めたりする。
期末試験一発のような授業が減り、各授業の小テスト等で学生との交流回数が増えれば自ずと授業の内容というものにより注目がいく。
普段授業に出ていなかった人間ならばなおさらである。
そして具体的には、同じ内容や難易度ならこの教授の授業は面白いのか、分かりやすいのかといった授業内容がより重視され、教授の話はサブとして教科書を自分で読み進めて一発試験のような受講者は減少するのではないか。
そして話法はその内容をどう伝えるかという最終決定権を持つ。
どんなに大したことのないことも、もしくは大したことも話法一つで内容は左右される。余談だが、だから詐欺師は話が上手い。
各授業は必ずしも同質ではないが、話法が重視されるという意味で予備校的になるのではないか。
大学は予備校ではないという言説は腐るほど聞くが、しかし予備校寄りにシフトせざるを得ないのではないかと思ったりするのである。
教育もまた大学の役目であるからだ。
しかしその意味で教授の負担は増えるし、研究の時間は減る。
例のアレにより不便するが授業料は据え置きでも良いかなと思う理由はここにある。
でもやっぱり授業料は安い方がいいけど。