家に帰ろう
家に帰ろう、日本の家に。ここはあまりにも寒すぎるから。
今年の寒さはまだマシな方で本当の寒さは1月にやってくるらしいけど、知ったことではない。12月の時点で極暖ヒートテックが手放せないのだ。もしこれがなければ、人生はもっとみじめなものになっていただろうと思う。人類の歴史はヒートテック以前と以後で明確に区分できるのだ。そしてまた、毎日マイナスに達する極寒の地で、特にやることもなく年を越すのはあまりにもハードである。だから殆どの同期は国に帰っていく。
同期の中国人は学期の予定が公開されるや否や予約していた航空券の日程を変更したらしい。クリスマス前のホリデーシーズンは航空券が高い。それでも一日も早くこの地を離れたかったのか、$600の追加料金を支払うことで予定の5日前に帰ることになった。空港までの送迎は彼氏の車にお願いしたらしい。その彼氏は国に帰らないらしいが。
一方、仲良し同期のブラジル人君は街に残るらしい。せっかく南半球は暖かいというのに、彼はその恩恵を過小評価している。冬の間もこの街で楽しくやっていけるというのだが、私はそれに同意しかねる。だから彼はドMではないかという疑念さえある。
この脱出計画について、私も9月くらいに学期の日程が確定すると帰国の日程を早めようかと悩んだ。というのも少しでも航空券代を安くするため日程変更不可の航空券を購入していたが、渡米してすぐに航空会社の機材トラブルの影響でフライト時間が変更されていたのだ。この時は、機材トラブルでフライト変更とは珍しいなぁ~くらいにしか思っていなかったのだが。
理由が航空会社の都合だと、日程変更不可のチケットであっても大抵一度は日程変更できたりする。電話で交渉するのは面倒だな、と思っていたが徐々に近づく冬の寒さにビビってしまい、結局日程変更の交渉をすることにした。果たして、追加料金を支払うこと無くフライトの日時を4日ほど早めることが出来たのだった。
なんと素晴らしいことか。世の中には$600も支払って日程変更している人もいるのに私はタダとは。神様は良い人のことをちゃんと見ているんだなぁ~
最後の仕事が12月の中旬に終わり、いよいよ帰国するかというときにはもう既に街は雪景色だった。雪景色というのは聞こえが良すぎて、雪は街の色という色を全て吸い取ってしまい、色彩というものが消え去ったような景色になっていた。いち早くこの街から脱出せねばならない。雪なんて良いモンじゃないだろう。初雪を観測した日の直感は正しかった。

同期の台湾人3人衆はその初雪を観測した日、オフィスにいなかった。慣れない雪で家から出られないのか…はたまた、環境の変化に心を病んでしまったか…と思ったがそうではなかった。台湾では雪が降らないからと仕事そっちのけで遊んでいたらしい。ほほえましい。帰国前の12月中旬にはすっかり雪も積もっていたから彼らは週末遠足に出かけて、互いに雪で遊ぶ写真を撮り合ってはinstagramに投稿していた。そんな彼らも国に帰る。なぜならここはあまりにも寒すぎるから。
帰国の便まで数日あったのでいくつかの事務仕事を終えた後、「日本食をごちそうするよ」と言ってこの台湾人同期の家に行くことにした。突撃となりの晩ごはんである。家を空ける前に冷蔵庫の中を空にしたかったのだ。色々準備している間にメニューは増えてゆき、冷蔵庫を空にするどころか追加で食材を買いに行く羽目になった。台湾に入ったことがあったからなんとなく台湾っぽい料理を作ることにした。彼らのお気に入りは焼きそばだった。あの甘辛い味を台湾の人は好むらしい。
帰国の日もやはり雪だった。Uberで大学前の広場まで向かい、シカゴのオヘア空港行きのバスに乗り込んだ。帰省シーズンということでバスは満席で、いつもは各駅のバスも停車駅は大学と空港だけという特別快速だった。だからオヘア空港には離陸の6時間前についてしまい、時間には大幅な余裕があった。
シカゴから日本へは直行便がある。けれどもこれは高いので今回はカナダのトロントを経由して帰ることにした。予定ではオヘア空港を夜の8時半に出てトロントに深夜に到着、翌昼の便でトロントを出て翌々日の夕方には日本に到着するはずだった。
はずだったのである。つまり実際はそううまくいかなかった。いつだってそうだ、俺の人生は。相当悲観的になっているのである。なぜなら寒いから。
オヘア空港の時点で既に暗雲は立ち込めていた。20時半に出るはずのトロント行きの飛行機はその前の飛行機が遅れているとの理由で1時間半遅れて出発した。他の便は定刻通りに離陸しているのになんとも運が悪い。空港に早く到着しすぎたことも合わさって、オヘアでは8時間近く暇になってしまい仕事が捗った。トロントに着いた時点で既にてっぺんは超えていて、空港のホテルに到着したのは25時を過ぎていた。
翌朝は7時にホテルを出てトロントのピアソン空港に予定通り到着した。順調に保安検査を進めて税関を抜けたころにメールが届いた。機材整備に手間取っており、出発が12時半になったらしい。まぁ、そんなこともあるか。私は寛容である。
私の便は羽田行きだが、同時刻に成田行きの便も出るらしい。搭乗ゲートの周りには成田に行く乗客もワラワラと集まり、英語よりも日本語が聞こえる機会の方が多い。既に心は羽田空港第三ターミナルである。
しかしそううまくはいかない。さてそろそろ搭乗ゲートに向かおうかという11時半頃に追加のメールが届いた。機材トラブルの解消に目途がつかず、別の機材に変更するため出発が17時半に遅れるというのである。羽田行きの便だけである。成田便に機材変更はない。隣に並ぶ彼らは早く帰国でき、我々はここに残される。あなや…

最後の審判はここに下され、搭乗ゲートはまさに選別の門と化した。成田行きの搭乗券を持つ者だけが早く帰国することを許された。如何に成田が都心から遠いとはいえ、ここまで遅れると家に着くのは成田便の方が早いだろう。どうして成田便にしなかったのか、千葉だっていいじゃないか、という非合理的な後悔に襲われる。航空券の日程変更をしたときの機材トラブルが壮大な前フリだったと気づかされたのだ。
そこからの記憶はあまりない。17時半に乗り込む時点で既に度重なる遅延と昨晩からの寝不足、そして日本まで14時間のフライトという事実に憔悴していたから。幸い航空会社からお昼ご飯分の$15のバウチャーが支給されたが、それで心は癒されない。
日本に到着したのは殆ど日付の変わる23時頃で、多くの乗客は終電を逃したり、乗継便を逃しており、baggage claimで待つ人々からは帰宅の代替策を案じる声が聞こえてきた。私はギリギリ終電で帰宅できたが、禍福は糾える縄の如しとはこのことか、と痛感した。
結局、アメリカの家を出てからほぼ丸2日の移動。とおいよアメリカ。
さて、2024年を振り返ると色々と身辺でドタバタすることが多かった。4月に渡米が決まりそこから有形無形の身辺整理が始まった。パソコンのHDDを整理する中で、これまで撮り貯めた写真を写真集にしようと決意し(アイディア自体は随分前からあったが)その作成などもした。そんなこともしていたら本当に一年が光の速さよりも早く過ぎ去ってしまったのである。タキオン粒子である。

ChatgptをはじめとするAI支援ツールはこの移住のドタバタの解消に大きく役立ち、時に非常に個人的な悩みであっても相談するくらいの信頼関係を構築した。いや、勝手に私が信頼しているだけだけど。
そんな彼に今年1年を総括して詩を書いてくれとお願いしたところ、何とも経済学風味のある詩が出来上がった。
Dancing on the ridge,
a soul in search of equilibrium—
each step a measured stride,
each sway a mark upon the metric.Where earth kisses snow,
is balance but an illusion,
or order within the infinite?
Upon this narrow path, we tread,
answering the call of the abyss.
無事家にも帰れたことだし、これで2024年を締めようと思う。
米国中西部をウロチョロする
渡米してから3カ月が経過したらしい。
しかし来月には日本に一時帰国するらしく本当にあっという間という感じである。どうせまたすぐ渡米するのだが。しかし、これほど時間の進みが早いと感じたことは今までなかったのでよっぽどこちらの生活が楽しくて時間を忘れているのか、あるいはあまりにも辛くて時間を忘れるほど心が無になっているかのどちらかである。ぜひ前者であってほしい。
こちらでの生活の立ち上げも完全に終了し、事務的な作業は一通り終わった。少しずつ余裕が出てきたところで中間試験なるものがやってきて2週間ほど本当に勉強しかしていない期間が生まれた。いつまでこんな試験をやっているのだろうかと情けなくなるが、今年度中の辛抱である。来年度からは研究ができるのだからそのための基礎作りと思えばまだマシである。実際学ぶことは多く、お気持ちで書いていた証明が少しずつマトモになっていくのを感じる。
生じた余裕で何をしたかというと先月、今月と相次いでシカゴへ行ってきた。シカゴは日本からの直行便があったり、今だとメジャーリーグに日本人が(多分)2人在籍していたり、同学年の駐在員がいたりと日本人が多い。ちょっくらシカゴに行って都会の空気と日本人のノリを感じてくるかということで"上京"したわけである。流石、米国第三位の大都市とあってビルは高く、都内生まれの私であっても圧倒された。日本と違って地震が無いことに加えて、シカゴは建築の街として有名なこともあり見たことのないような高いビルが不可思議な建築様式で密集しているのには驚いた。倒れちゃわないの?と不安になるわけである。

渡米前にどこに行くのかと聞かれ、シカゴ周辺と言っていたがシカゴってどこ?という反応する人が多かった。アメリカは西海岸のLAと東海岸のNYだけではないということを強調したい。残念ながら私はLAもNYも行ったことがないのだけれど。
2回のシカゴ訪問で何を見たかということである。それぞれ別々の目的があり、それはそれで感動的だったのだがそれを除いても余りある程の経験をした。1つには66号線の起点を見ることができた。66号線といえばサンタモニカとシカゴを結ぶアメリカ有数の国道であり多くの映画や音楽に登場するが、私にとって66号線はBump of Chickenの曲名としてインプットされている。これほどいい曲を私は知らないが、ある意味その聖地を巡れたことは恐らく初めてヴェネツィアに行ったときの感動を上回らんとするものだった。ちなみにヴェネツィアは一番好きなポケモン映画の舞台だったのでこれも感動したわけであるが。

それから定番ではあるがシカゴ美術館にも行ってみた。正面玄関は66号線のモニュメントの写真の裏にある建物であるが、そのクラシカルな建物の背後には近代的な建物があり、そしてそれは恐らく増設されたものだと思うが、想像以上の展示作品数であった。私の住む街にはない近代的な建物と教養のない私でも知っている作品の数々に圧倒されたのであった。なんか見たことあるな~という絵が多く、その横の解説を見るとその作者を知るわけである。自らの教養の無さを恥じる一方で、これは学習だなと思い1つずつ名前を覚える次第であった。





余談ではあるが、今年はアムステルダムでゴッホ美術館に行き散々ゴッホ作品を浴びてきたので彼の絵はわかるようになった。だから彼の自画像を見た瞬間に彼がゴッホということを認識できたのは成長である。知ってるよ~
建物内の展示はそれぞれ文化・時代によって区分されており、当然?のことながら我らのJapan sectionもあった。いくつかの日本の仏像を見て感涙する一方で、一つだけ奥まった部屋があった。暗く木造の柱が規則正しく格子状に立っている部屋でその奥に明らかな人だかりがあるのが分かった。なんじゃらホイと思って入ってみるとあの有名な波の絵があった。どうやら"本物"らしいが、浮世絵に本物とかあるんかいな?と思いつつ初めて見た冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏であった。
海外の方はずいぶんこの絵が好きなようである。というのも以前イギリスに住んでいたとき大英博物館でこの冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏に注目した展示があって、Great Waveなどと言ってやたら周囲のイギリス人がほめていたからである。私はそんなもんいつでも見られるわ!という謎のあまのじゃく根性を発揮して見なかったのである。それから両国の方に葛飾北斎の美術館があってそこに行ったこともあるのだけれど、入り口でその入場料の高さを見て、まぁ今度でええか!というこれもまた謎の貧乏性を発揮してみる機会を逃したのである。そんな紆余曲折を経たので、やっとこさ見ることのできたこの絵には多少の感動があったのである。ちなみにシカゴ美術館の入場料の方がずっと高い。


そんなこんなで海外からの評価や評判で自分やその文化の価値を知ることは多い。渦中にいてはその価値に気づけないのである。実際海外にいるとこういったJAPAN premiumを感じることが多い。それはアニメや寿司や浮世絵の様な文化的な側面が素晴らしいと言って褒められることもある。けれどこういったものは個人的にはあんま関係ない。
ちょっと得だな、と思うのは日本人はマジメという謎の信頼感で評価されるときである。実際オフィスの同期からは、まぁ日本人だから大丈夫だよね、という謎の信頼感を得ておりちょっとお得感がある。これは既に海外在住の日本人が築き上げた信頼なんだろうと思いこれを傷つけないようにしたいと思った。イギリスにいたときも同居人たちからこういった信頼を無条件に得ていたので、これは恐らく私自身というより日本人全般に対する信頼なのだと思う。
私はというとブラジル人と台湾人という割と日本に好意的な人々に囲まれチヤホヤされている。なるべくこのチヤホヤを維持しておきたいものである。なぜならチヤホヤされると嬉しいからである。
原点ゼロの孤独
渡米して2カ月が経過した。
入居直後はとにかく物が無いのでひたすら買い物の日々だったが一カ月もすると生活に必要なものは大体揃い、ウンザリするような日々の連続が少しずつ顔をのぞかせている。ややこしい事務手続きもひと段落した。携帯電話を契約しようと思ったら知らぬ間に最も高額なプランを契約していたり、電気代の請求が一向に来ないと思えば電力会社が我が家の住所を間違えて登録していたり、amazonで購入したディスプレイがバキバキに割れていたりと様々なハプニングはあった。その都度、対応部署に電話して文句を言ったり、amazonの返品のために町はずれのUPSのオフィスに行ったりしたわけだが、なんとかなるものである。初めての一人暮らしがいきなり海外なので日本ではどうだか知らないが、恐らくこんなややこしいことにはならないと思う。早速、軽い洗礼を受けた。そんなこんなを経て、事務手続きの最後の1ピースであったAmexのGold Cardを入手した。今後はポイ活に勤しむ予定である。
それで本業の方はどうなのかといえば、毎日officeに行って同期と顔を合わせ授業をひたすら受ける日々である。1年目は授業受けてたら終わるよ、というのは多くの先輩方から聞いていたがどうやら本当にその通りになりそうである。感覚としては高校3年生に舞い戻ったようで、1年後に控える進級試験に向けてウンザリするほどの講義と課題の連続をこなす日々である。とはいえこれを有限回繰り返せば終わるのだから、多少の辛抱である。実際、忘れていたことも多いので良い復習と英語の訓練になっている。今日は"bed rotting"なる単語を知ることになった。
ある先輩はこの1年目の日々を最後の集団生活だから存分に楽しんだ方がよいと言っていた。確かに、こちらに来てから孤独というのを一切感じたことがない。多少は日本に帰りたいなどと思うのかしら、と思ったがそんなことも一切ない。一つには日々が忙しくそんなことを考える暇もなく、数年ぶりに毎日誰かと喋る生活に戻ったこともあるのだろう。日本での蛸壺生活は知らぬ間に孤独を加速させていたらしい。
こちらの生活に順応できたもう一つの理由は、同じ境遇の人間に囲まれているという環境もある。中西部の田舎都市なので学部生は典型的なアメリカ人といった感じだが、博士課程にもなれば世界中からの留学生が大半を占める。実際、私の同期もアメリカ人は少数派で、多くはアジア・南米・ヨーロッパ出身と多国籍である。その大半が私のように20代の後半で単身渡米してくるのだから、つたない英語でも同じだけの孤独を抱えた者同士、自然と仲良くなるのである。
2カ月という期間は彼らの人となりと素性を察するには十分な期間だった。なにせ土日も含め本当に毎日会っているのである。最初はありきたりで表面的な”国際交流”をしていたが、そのうち政治や宗教、思想的な話をするようになる。アメリカの大学院に来る時点で各国では相当リベラルでインテリに分類されるような人間なのだから、彼らと話すことは単純な知的好奇心を満たしてくれる。そしてまたそれぞれにストーリーがある。
ロシア人の同期は今後20年は自国に戻れないだろうという。戦争(またの名を特別軍事作戦)のために一度国に帰れば戻ってくるのは難しいらしい。両親をロシアに残して渡米し、経済制裁のため自国からの送金はできず、大学からの給与のみで生活するらしい。
台湾人の同期はちょうど兵役を終えてから渡米してきた。迫りくる中国の脅威のために今年から徴兵期間が1年間に延長され、ちょうど延長が決定する前に兵役に行ったため短期間で済んで幸運だと言っていた。いずれは戦争になるだろうから、と言いつつも同じく同期の中国人といつも仲良くやっているのはどういう心境なんだろうか。
その中国人の同期は本国の大学を卒業しても職がないため渡米した。中国では大卒者が増えすぎたため就活市場は非常な競争率となっている。殆どの求人は修士号を持っていることが前提で、そのための競争とその競争に見合わない給与を考えた結果、渡米することにしたらしい。一度、博士号を取得すれば高給取りになれるのだからと朝から晩までずっと大学にいて、コネクション作りに躍起である。
果たして私はというと自分の興味の向く方向へ歩いているうちに根無し草的にこの街に流れ着いた。自国からの金銭的援助もあるし、徴兵もなく、帰ればまぁ何とか働くことはできるだろう。そういう話をしていると日本はいいね、と言われることも多い。
冬休みの間は日本に戻る予定である。帰ったらこちらの生活で必要なものをまとめ買いしようと思い日々まとめているメモ帳がある。ある時、そのメモ帳に加筆しようとしたところ、原点ゼロの孤独、と一言書かれてあった。恐らく、延々と続く数学の授業のせいで変な夢を見て、意識のない間にメモしたのだと思う。ただ、それがなんだか他人事ではないような気がしてとりあえず残しておくことにした。
超主観的2024年度米国物価統計
さて、8月の上旬に米国に到着し早2週間ほどが経過した。
入居した日には部屋に何もなく、開通しているはずだったwifiも通っていなかったため次の日まで生きていけるのか不安だったが、この2週間で生活に必要なものは大抵そろった。アメリカの(少なくとも私の地域の)アパートでは家電は既に備え付けてあることが多いので、冷蔵庫や洗濯機といった重いものを購入する必要がなかったのは幸いした。とはいえベッドもなければ机も椅子もソファーも何もなかったので、amazonや近所のスーパーでひたすら物を購入する日々が続いた。その結果、仕事用にamazonで購入したディスプレイが配達の途中の衝撃のためか割れており、早速米国の洗礼を受けたのであったが…
何はともあれ、金があることはいいことだなぁと思った。お金が無いことに慣れていた身からするとこれは驚くべき発見である。私が最も気を付けるべきことは金を使いすぎて破産することではなく、知らぬ間に節約しすぎて衣食住をおろそかにし心を病むことである。実際、多少金を使いすぎるという意識くらいじゃないと人としてまともな生活を営めないことは過去の経験が裏打ちしている。
だから迷ったらとりあえず色々買ってみるという心意気のもと、ここ数週間買い物をしていたらなんとなく今のアメリカの物価やその構造が分かってきた(ような気がする)ため、ここにそれをまとめておこうと思った。実際、イギリスにいたときもそんな記事を書いていたしね。それと日本にいたときの感覚と米国に来た時の新鮮さを忘れないうちに書いておきたいというのもある。
話を簡単にするため以下では1ドル=150円を想定する。(この円安のせいで大抵のものは日本の価格よりも上回ってしまうのだけど…)
まずはわかりやすい生鮮食品周りを見ていく。ここではとりあえずうちの近所のスーパーマーケットから抜粋していく。スーパーといっても色々とレベル感がある(スーパー玉出・成城石井・イオンなど)。今回注目するスーパーは関東でいうところのサミット・ライフなんかを想像してもらうと一番わかりやすいと思う。幅広い食品と総菜を扱っていて、激安ではないけどそこそこ適正な価格でそれなりの品質のものを揃えてます、という感じである。イオンと同じかちょっと上、SEIYUよりは明らかに上という感覚である。



前提が長くなったが実際に見ていくと、人参:150円、じゃがいも150円、キャベツ1玉150円、パプリカは2つで450円、キュウリ1本150円、玉ねぎ1lb(450g):180円、ズッキーニ1lb(450g):300円といった具合である。野菜のサイズは日本とあまり変わらない。ただキュウリは馬鹿でかい。海外あるあるである。
米国は物価が高いと聞いていたが割と東京と変わらないか少し高いくらいで収まっているようである。ただ恐らくこれには2つ理由があって(1)夏なので野菜が安い(2)中西部の田舎都市なのでNYやLAよりも全体的な物価が安い、といったことが影響しているように思う。とはいえ野菜はこんなものである。
では肉や魚はどうだろうか。




鶏むね肉:130円/100g、牛ひき肉(92%肉,8%脂肪): 400円/100g、豚ロース: 116円/100g、タラの切り身: 200円/100g、サーモンの切り身(おそらく加熱用):466円/100gといった感じである。
鶏むねは日本だと国産じゃない限り100円を上回ることはなかったので明らかに高い。驚いたのは日本だと肉の値段は大体、牛>豚>鳥であるがこちらは牛>鳥>=豚といった感じで豚肉の方が安いことがある。特に豚のロース肉はどのスーパーでも安く、今日は厚切りのロース肉3枚が1パック$2.5(375円)で売っていたからこれは日本より安い可能性がある。それからここは海から遠いという土地柄ということもあるだろうが魚はやはり高い。また魚の種類も豊富ではなくタラやサーモンなどどこでも手に入るような魚しかないのは少し残念である。生食可能な魚もあるかどうかはわからない。寿司屋を開店するには不向きな場所であることは間違いない。
その他の食料品も見てみる

アメリカだからコーラは安いだろ~と思っていたがそんなことはなかった。600mlで400円である。マウンテンデューも同じくらいする。というか水でさえペットボトル一本が230円くらいする。もちろんまとめ買いをしたり、大容量パックなどを買えば安くなるのだが単価でみてもやはり日本よりは高い。私が常飲していたゼロコーラは500mlで120円だった。それでもコロナ後のインフレで値上がりしたのだからやはりアメリカの方が高い。
アメリカではペットボトル飲料を買って飲むという習慣が日本に比べ根強くないことも影響しているのかもしれない。自販機の数も圧倒的に少ない。また、水も高く水道水も不味いので、多くの人が水筒を持って歩いていることに驚いた。

パンはいつだって庶民の味方である。フランスもパンの値段は公定価格で決まっている。ベーグル:150円、brat buns(ちぎったコッペパンのようなもの):120円とこれは日本と同じかそれより安いような気がする。アメリカンサイズを考えれば、シナモンロールも2つで450円だからお得である。私は毎日スーパーに行くのが面倒なのでシリアルを買っているがこれは明らかに日本より高い。


最後にお酒を見ていく。私のいる町はドイツ系の移民が多く入植したという歴史的な経緯から醸造所多い(らしい)。そのため、ビールの種類が豊富である(チーズやソーセージの種類も豊富である)。また、この土地は冬になればまつ毛も凍る極寒の地になる。寒いときやることといえば酒を飲むくらいしかない。エジンバラといい私は酒の豊富な土地に巡り合うことが多い。
余談はともかく、600mlのIPAが2本で750円、600mlラガー(日本だとスーパードライなど)6本セットが825円といった感じでこれも日本と変わらない感じである。また、ビールに関しては日本など比ではないくらいローカルなクラフトビールが多く、その種類の豊富さに驚かされた。仕事にならないので酒は控えたいがこれは大きな誘惑の一つである。
それからお惣菜なども売っている。ターキーレッグやピザ、正体不明の炒め物などにはまだ手を出していないが小売りのサラダなどは$1(150円)/100g前後で晩御飯の一品として優秀である。これは近所のスーパーだけでなく町の中心のスーパーなどでも同じような価格帯なので疲れた日の助けになっている。


その他、amazonで購入したベッドや棚・机などは品質・規格の差などが大きく日本と比較するのが難しいので割愛するが、おおむね日本と同じか少し高いくらいの値段で購入することができた。そのため、このような円安でも十分に生きていけるくらいの支度は整ったのである。
まとめてみると食料品・生活必需品については東京で暮らすのとさほど大きな乖離はない。今回は1つのスーパーだけを取り上げたが、色々見て回ると各スーパーで安いものがかなり異なっていたりする。例えば、近所のスーパーは野菜が比較的安いが、町の中心部のスーパーは肉が安いということがかなり顕著な差で生じたりする。また全く同じシリアルが$1くらい違う値段で売られてたりすることが割とある。
個人的にはどのスーパーも一部の目玉商品だけ極端に安くして、それ以外の商品は少し割高にすることで全体的な利益を保つ”経済学"的な行動をしているようにも見える。実際、いくつもスーパーを歩き回れるほど1つのスーパーの周囲に複数のスーパーもないので、日本よりも一度消費者を入店させてしまえば勝ちみたいな競争が働いているような気もする。あくまで憶測だが。
また今回は食料品ばかり注目していたけれど、レストランや家賃に関しては大体東京の2倍くらいの価格である。レストランに関しては当然チップもある。これも私の住む町の規模を考慮すれば米国ではかなりマシな方である。特に日本人の多いNYやLAに行けば1Kのボロ家で家賃40万などがザラなので、金銭面で田舎に住むメリットはある。治安も良いしね。
とはいえ田舎なのでもちろん日本人は少なく、娯楽も少なく、日本食も手に入りにくい。amazonやアジアンマーケット・日本食専門の配送サービスなどを使えば日本食も割高ではあるが入手可能である。まぁどんなに頑張ってもこちらで日本での生活を目指そうとすれば常に日本の生活の下位互換にしかならないので諦めてこちらの文化・食生活に慣れてしまった方が早いのである。自分の生活スタイルを変えることにさほど抵抗のない人間にはこういった田舎も向いているのかもしれない。
最後に個人的には出不精な性格も功を奏したと思う。社交的ではないから服や交際費に金はかからないし、趣味もYouTubeと料理くらいなので、外食もせず料理と家賃にお金を回すことができる。良くも悪くも内向的な人間は田舎暮らしが向いているのかもしれない。そんなことを言って数か月後東京が恋しくなったりするのかもしれない。
ひとまず2024年時点での超主観的物価統計はこんなものである。
旅歩
今年に入ってからどうも調子が悪くやる気の出ない日が続いた。より正確には1月はやる気に満ち溢れていたが2月からその調子は大幅に失速した。毎日眠りが浅く、寝つくのが深夜3時台になることも少なくなかった。当然、睡眠不足なので翌日のパフォーマンスはよくない。一度こういうリズムにハマってしまうと改善は難しい。普段は座り仕事だから体は疲れない。ジムで体を動かそうとしても寝不足なせいで力も出ない。原因はハッキリしていた。「お受験」である。
アメリカに行くことになった。
唐突に決まったのではなくコロナ前から計画していたことだった。というよりもこのブログを始めたエジンバラにいた頃からこういった未来のパスがあることは想定していた。研究を続ける上でアメリカというのは魅力的なフロンティアなのだ。だから大学院に進学するという意思決定をしたときに、研究が軌道に乗れば恐らくアメリカで研究を続けることになるだろうという想像をすることは何らおかしなことではなかった。むしろそういった可能性があったから、日本の大学院に進学することにさんざん躊躇って、周囲の人間に迷惑をかけていたのかもしれない。
アメリカの大学院の博士課程で研究を続けるということは私の分野では割と一般的なことで、そのためのノウハウというのはかなりの蓄積がある。ネットを検索してみても米国大学院進学指南!のようなブログは山ほどあるし、"良い"大学に進学するための最適解は既に開拓されている。だからやるべきことはわかっていたし、後は問題集を解いて来るべきお受験に備えるだけという状態だった。それこそが私の最も苦手とすることなので、調子が狂ったともいえる。
お受験のように皆が同じレールの上で競争することは苦手なのだ。だた、いわゆる日本のお受験と違うのは、ペーパーテストはなく(厳密にはTOEFLなどはあるが)推薦状や研究実績といった"ソフト"な面が評価される点にある。そしてこれは一朝一夕で得られるようなものではない。"良い"推薦状をもらうには推薦者とそれなりの信頼関係を構築する必要があるし、研究実績も年単位の時間を要する。だからbackwardに考える必要があって、計画の開始自体はコロナ前に遡るのだ。
20校くらいの大学院に出願をした。
おたくの大学で研究をしてPh.D. (博士号)を取得させてくれ、というわけである。そのための金銭的な援助(生活費+医療保険など)は大学が出してくれる。当然、大学側もお金を出すわけだから誰を採用しようかと選考は慎重になる。加えて、私の分野のPh.D.取得後の年収は近年右肩上がりで、新卒2000万などが平均になっていたりする。それ目当てでとりあえず博士号を取って企業で一攫千金を狙うような志願者もいる。だから競争率は高く、どこに受かるのか結構予想がつかない。結果、20校も出願する羽目になった。結局行くのはその中の1つでしかないのに、合計の出願料だけで60万近くを支払うことになった。
幸いなことに8つの大学からofferがあった。いわゆる日本の大学受験でもこんなに受かっていない。この場合offerというのは5年間(最近では6年間)の研究に必要な金銭的負担を大学がするからうちの大学においでよ、というお誘いのことである。恐らく、これが人生で最大のモテ期なんだとおもう。最終的に同じような研究をできる3つの"パートナー"の選択で悩むことになった。
西側の大学はアジア人が多く気候も年中良好で過ごしやすい環境である。けれども近年治安がよろしくなく、加えて全米でも物価が高いことで悪名高かった。その大学に進学した先輩は毎日の自炊は必須で、これは大学が州立であるためにお給料の額が少ないことにも起因していた。
中西部の大学は正反対で日本人は少なく冬は-20度まで下がるような極限の環境である。けれども、大学の周りは全米でも屈指の治安の良さで物価も日本と同じ程度である。加えて、この大学を卒業した先輩が周囲には多く、生活の非常にミクロなtips (あのレストランはうまい・あの授業は聴講した方がいい、など)が充実していた。
東側の大学はこれら2つの大学の間のような環境で、気候もそこそこ物価や治安も悪くもないが良くもないという環境だった。その地域には日本人が多く、またその多くは研究者ではなく企業の駐在員ということで新たなネットワークが開拓できる可能性があった。
もちろんどの大学でも素晴らしい研究体制が整っていた。
この選択がここ数カ月の悩みと不調の種だった。
アメリカはおおむね日本と昼夜逆転しているから、大学からのメールは深夜に届く。それもちょうど寝ようとする24-25時くらいにメールが届く。お受験の結果が深夜に届けば、その結果に一喜一憂するのは当然である。第一志望からの"お祈り"が届き、それ以外の大学からの"内定"が届くたびに選択は困難を極め、眠るのが遅くなったのである。輪をかけて厄介なのは内定をくれる大学は如何に自らの大学が素晴らしいかを毎晩メールで送ってくる。私たちの大学は過去5年間でこれだけ優れた研究者を輩出したとか、これだけ潤沢な研究資金があるとか、である。またこちらが難色を示すとお給料を上げるからどうだ、という交渉をしてくる。刻一刻と変わる状況で、慣れない交渉を深夜に行うのは"正しい"意思決定を行う上であまり良いことではなかった。かといって他の誰かに相談するわけにもいかず、要領を得ないLINEを周囲の人間に送り付けてみたりもした。
さんざん悩んだ挙句、4月の上旬に中西部の大学に行くことに決めた。
お給料はそこまで高くなかったけど、治安と物価を優先した。エジンバラで1年間生活した経験はこういうところで生きている。やはり海外という慣れない環境で安心して仕事するためには住環境を最優先した。それから多少お給料が少ないことはあまり問題ないだろうとも考えた。留学するために家賃以外の生活費を150万貯めて渡英したけど、結局1年で家賃以外に40万しか使わず(しかも殆どが毎月の海外旅行費である)、貯金の大部分を残して帰国したことを考えると、私はあまり金を使う人間ではない。ともかく、この決断が正しいのかは6年後の自分が証明してくれると信じている。信じるだけじゃなく現実のものにしなきゃいけないのだけど。
思えばこのブログもエジンバラの留学の時に書き始めたものでちょうど6年ほどの歴史がある。
その6年間と同じだけの時間をこれから米国中西部の田舎で過ごそうとしているのだから、どうなるのか皆目見当もつかない。6年前の自分を想像すれば、就職するか大学院に進学して研究するかどうかを悩んでいて、スコットランドのくそ狭いセントラルヒーティングの壊れた10平米くらいの部屋で腐っていた。初めての海外生活に加え、イギリス特有の暗さと寒さにまんまとやられた。食事する気力はなく、Lidlで買ってきた安いパスタとフランスパンがメインの食事で、ツナ缶や鯖缶でタンパク質を補給していた。お金がなくて(実際にはあったのだが極度の節約癖と先の見えない不安のせいで)魚は買えず、たまに安い羊肉を買って食べていた。それでも何とか生きてそれなりの道を見つけたのだから、6年後も何とかなっているんじゃないかなと思う。
こういう後ろ向きな楽観主義を身に着けたのもこの6年間である。よく言えば慎重、悪く言えば悲観的なのである。後ろを向きながら前へ進むこの厄介な歩き方でヨーロッパを何とか歩ききったのだから、次は北米も踏破できるんじゃないかという謎の自信があるのだ。
ホームシック衛星2024年に行ってきた興奮に関する雑文
(ホームシック衛星2024年に行ってきた。あまりに素晴らしいライブだったのでここに思ったことを書き残しておこうと思う。)
現代において暦といえば西暦が使われており、ほかにも元号やら太陰暦やらと色々な暦が存在する。これらの暦というのはある時点を基準にした時間の相対的な尺度を提供するものである。
西暦ならキリストの誕生を基準にしている。その基準がBUMP OF CHICKENの活動開始1996年2月11日であって悪い理由があるだろうか。そうすれば今年が28年目という特別な年であり、ホームシック衛星2024が開催されたことの十分な理由になる。
つまりどういうこと?
ホームシック衛星2024というのは2008年頃に開催されたホームシック衛星・ホームシップ衛星というツアーのリバイバルツアーである。
このホームシック衛星・ホームシップ衛星(2008)は当時発売されたOrbital Periodというアルバム曲を中心としたツアーだった。メンバーが28歳になった際に作成されたアルバムであり、その28という数字にも色々と意味が込められた上で作成されたアルバムだった。つまりは、随分と思い入れのある曲たちを演奏するツアーだったわけである。
そして、このOrbital Periodを擦り切れるほど聞いていた私にとっても、個人的にも思い入れのあるアルバムツアーであった。
なぜならいつだって思い出というのは主観的なものであるからだ。
この2008年のアルバムツアーをリバイバルするというアナウンスが去年突如なされた。いや、実際BUMPの公式発表はいつだって唐突なのだが、これに関しては特に驚いた。
というのも、今までBUMPがリバイバルツアーなんてやったことはなかったし、しかもOrbital Periodなのだから。
ちょっと昔話だが、BUMPというのは2010年前後までは極端にメディア露出を避けていた。いまや殆ど全ての新曲が何らかのドラマ・アニメ・映画のタイアップだが、そういうのことすら無い時期というのが特に2008-2012年くらいにあった。(例外はいくつか存在するが)
そうなると彼らの存在を認識できるのは週に一回の日曜深夜三時のPONTSUKA!!とYouTubeに違法にアップロードされたホームシップ衛星(さいたまスーパーアリーナ)のライブ映像だけだった。そしてそのライブ映像で演奏されていた曲たちがOrbital Periodの曲であった。
また、ホームシップ衛星(2008)がきっかけにライブというものに参加するようになった。
上記のライブ映像を中学校の登下校の最中に気が狂うほど聞いていたため、その次のアルバムツアーであるGood Glider Tour (2011)が開催されると聞いた時には、なけなしの金をはたいてチケットを購入した。
ライブ会場は渋谷のNHKの横にあったSHIBUYA-AXというライブハウスだった。中二だった私は5時間目の授業が終わると居ても立っても居られなくなった。当時はグッズ整理券や通販などはなく、グッズを購入したければ早くライブ会場に到着することが何よりも重要だったからだった。私は学級委員であったのにもかかわらず、その担当であった下校前の集会を欠席し、その後の担当だった教室掃除を当時付き合っていた彼女に任せ、中学校から約2km先のSHIBUYA-AXまで全速力で走ったことを覚えている。
会場に到着すると、今の私と同じくらいの年齢のファンがグッズ販売の白いテントの前にそれはそれは長い列をなしていた。恐らく12月の寒空だったと思うが、私はそこで学校帰りの制服でツアータオルとリストバンドを購入した。ちなみにこのツアータオルは修学旅行先の京都のタクシーの中に置いてきたまま無くしてしまった。
閑話休題。つまりは、それほどまでに1つ1つのライブや曲に思い入れのある時期に聞いていたアルバムがOrbital Periodであった。
情熱は約束を守り続ける。そして開催されるリバイバルライブツアーは明らかに気合の入ったものだった。ツアー開始が2/11という結成記念日だし、グッズは当時のデザインを意識したものになっていた。おまけに近年改善されたはずのグッズ販売列は終わりが見えないほど伸びており、開演1時間前に到着した私は全くグッズを購入することが出来なかった。ここは再現しなくてもよかった。
セットリストは完全に当時の再現だった。いや、厳密には数曲だけ異なっていたが構成は殆ど当時のまま演奏した。ライブ初演奏の曲や既存の曲を組み合わせた新曲など、発売16年目のアルバムに新しい解釈が生じ、近年高騰しているチケット代以上の内容だった。
BUMPの曲は藤原がある時期から明言し始めたように、解釈が一意に定まらないように作られている。特に近年の曲はその傾向がある。つまり、聞いた側で好きなように受け取ってくれということである。そしてその解釈が自分の人生(というと大げさだが)やら環境の変化とともに変化する。当時なんとも思わなかった曲が10年経って物凄く"効いて"きたりする。
Orbital Periodを聞いていた中学生のころと今では、適当な人生を送ってきたとはいえ感じるものが違う。演奏された曲の中から特に印象的だった曲を数曲とそのフレーズをあげておく。

君に嫌われた君の沈黙が聞こえた。君の目の前にいるのに遠くから聞こえた。
近年はアンコール曲で多かったメーデーだが、さすがホームシック衛星なので一曲目だった。最初からクライマックスという感じだった。
- 東京讃歌
嘘が多いのはどこでもだろう。星が見えたってどうせ飽きるだろう。すれ違う中には似た理由でここへ来た人も少なくないだろう。
Orbital Periodではなくpresent from youからだが今回初演奏された。イントロのハーモニカは無く4本での演奏だったのでシンプルだった。
- ハンマーソングと痛みの塔
別に今更辛くもないけど誰かが見てくれたらな。これだけあれば許されないかな少し優しくされるくらい。
独特の手拍子を最初から煽る演出だった。最近優しさが足りないです。
- supernova
君を忘れた後で思い出すんだ。君との歴史を持っていたこと。
君を失くした後で見つけ出すんだ。君との出会いがあったこと。
毎回ここで涙腺崩壊しそうになるが今回は耐えた。
ということで素晴らしいライブに元気をもらいました。
登攀
ジッヘルは
岩登りや氷雪登攀(とうはん)で、登攀者が互いの転落、滑落を防止するために、からだをザイルで結び保持すること。
という言葉で山登りの際に自分や仲間の体が落ちていかないよう、身の安全を確保する動作のことを言うらしい。私が生まれる前に他界した曾祖父はこの言葉を、これまた既に他界した祖父に事あるごとに言っていたという。
この曾祖父は戦前、植民地だった台湾で会社をやっていて、終戦時には社員一同引き連れて、蒋介石がやってくる台湾から本土に引き揚げてきた。住んでいた国を追い出され逃げてくるというのは今では想像もつかないが、この経験が登山好きの曾祖父には登攀者が互いの身を確保しあうジッヘルという言葉に結びついたのかもしれない。
年始に一人暮らしとなった田舎の祖母に会いに行った。以前までは新年に必ず東京に出てきていたが、祖父が他界し、祖母自身の体も悪くなったため過疎化の激しい田舎から出てくることはなくなった。今や地元の教会で日曜の礼拝に行くのがほとんど唯一の社交だという。
この他界した祖父が上京した際、必ず別れ際には握手して「しっかりやれよ」と言っていたことを思い出した。認知症で死の半年前に面会したときにも握手するなり私のことを認識して同じ言葉を繰り返していたことを思うに、忘れない記憶というのもあるのだと思った。多分これもジッヘルの一種だったんだろうと思う。
果たして自分はジッヘルできているだろうか。人生は登山のようだというのは使い古された比喩だが、もしそうだとしたら適切に身の確保をできているだろうか。登るべき山も頂上も無数にあるのに、登るべき山は定まっただろうか。また、誰かの身を確保することはできただろうか。
なんだかんだでモラトリアムは終わりを告げて、進むべき方向とやるべき努力の量が見えてきた。山の1合目で身を確保したがしっかりやれているだろうか。自分のことだけ考えているようでは、おそらくジッヘルはできてはいない。
自分自身の身を助けたつもりが誰かを助けることになっていることがある。知らぬ間に互いの身を保持していたのだろうが、そういうことに後から気づく機会も多い。自分自身の身を確保できたときに、誰かが滑落しないようにできるのはまだ先らしい。