ついに迷走を始めました

ブログ書くんだってよ 

2021年のごった煮

ありきたりな言葉ではあるが気づけばもう年末であるので2021年の振り返りをしたい。

こういう時に何が起こったかを確認するためにも写真は便利である。

最近写真撮ってないですけどね。

 

1. 無機的なこと

1月から3月はまだ学部生だった。

昨今の流行病と1年の"戦略的"留年により実質消化試合的な様相を呈していたが、それでも卒論を仕上げる必要があったので専念した。この卒論は小規模だが国内学会で発表し学内でも知らぬ間にある程度の評価を頂いていた。

自宅のパソコンで1日中シミュレーションを回しては結果を確認する作業は非常に地味である一方、誰も知らない魔物を作り出しているようで楽しかったことを覚えている。また、30ページ弱を英語で書くのが予想外にハードであったためGrammerlyとOverleafの連携技を覚えるきっかけにもなった。

 

また同時期に学外の大学院への辞退書も書いた。これは非常に悩ましく、高校生の頃に第一志望とし世間的にも圧倒的に評価の高い大学の大学院に合格したにもかかわらず、辞退するというのはおよそ正気の沙汰ではなかった。損得勘定のみで考えれば、そしてそういった学問を専攻している身からすれば、非常に心苦しくあったが辞退するに至った。そうした個別の理由は様々だが、しかし生存戦略としてはおおよそ機能したと現時点では評価している。10年後に大きく後悔していることの無いようにしたい。

ともかく大学学部を5年もかけて卒業し大学院に進んだ。

 

経済学研究科は同学年が26名しかいない魔境である。しかもそのうち昨今の流行病で入国できない留学生・籍だけを残して就職活動する者などを除けば実質的な同期は数名である。各自のバックグラウンドが大きく異なるため人間関係がうまくいくのか不安であったが、非常に助かったのは所属する研究室が比較的大所帯であり、またモデルとなる優秀な先輩方が多く所属していたことであった。

経済学大学院の1年目はどの大学院も同様にお勉強(コアコース)に費やす。この授業で好成績を残すことが必要とされるが、春休みに予習していたことや、1年の"戦略的"留年、その他先輩方からのノウハウなどにより、想定していたより比較的負担が少なく乗り越えることができた。加えて、密になることを避けるため対面試験から宿題+take home examに切り替わったのも不幸中の幸いであった。試験一発は苦手なので日ごろの積み重ねが反映される評価に切り替わったことに助けられた。

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悪魔の経典

 

このことは予見できていたので、空いた時間を使い夏休みまでは企業で研究員?研究補助?として働いていた。昼間は授業を受け、授業が終わると夜まで研究をし、深夜の間に共著者のチェックが入り、朝にそれを確認しつつ授業を受けるという生活は非常にハードであり、自身が睡眠時間を削ってまで働けるような人間ではないことを痛感した。また、同時に”良い"生き方についても考えさせられた。特に6月あたりは精神的に相当参っていた。ただお金はしこたま貯まった。

この研究は後に国内の学会で発表し査読付き国際学会に通した。

 

夏休みに入ると世間はオリンピック一色だったが、一方で修論のネタに困っていた。企業でデータはもらえたが十分なネタにはなりそうもなかったし、やろうと思っていた研究はデータの制約でうまくいきそうになかった。どうにかこうにか集めたデータでやろうとしたところで、海外のworking paperで同様の研究が発表されてしまいこれはボツかなという雰囲気が漂った。

後述する心境的な変化もあり、また良い研究をするためにもテーマの大転換を図った。暗中模索で研究テーマを探すのは効率が悪いので、自分が何に興味を持っているのかを再考する必要に駆られた。周囲の人間に面白い業界事情を聞いてみたり、日経新聞を読み漁り世情を追ってみたが、最終的なネタの元となったのは家族との夕食中の会話であった。振り返ってみれば夏休みの大半はこのテーマ探しに費やされ、しかしその夕食の会話で殆どネタが出来てしまったので、夏休みは総じてみればあまり生産的ではなかったのかもしれない。

それから夏休みには、企業の夏季インターンにも参加した。夏季インターンには学部3年生の頃にも参加していたが、再度自身の同世代内での立ち位置の確認と、企業の様子を伺うということで参加した。そこそこの評価をされたが物足りなさと微妙な職場の雰囲気を察し早々に退出した。職場の人間関係が外部のインターン生に察されてしまうような職場はあまり良くないのではと思ってしまった。生意気ではあるが。

 

夏休みは非常に長く10月から授業が再開した。残念なことであるが、夏休み後の授業は比較的退屈であまり興味の持てるものではなかった。加えて、企業での研究はひと段落していた。夏休みで弛んでいたのかもしれないが、正直気力が不足していたと思う。ここで少し海外大学のRAをするなどしたが、あまり気力は回復しなかった。

新たに設定した自身の研究はデータの入手に大きく依存していたので、それを保有する企業を説得する必要があった。入手できる行政データを頼りに予備的な分析を行いつつ先行研究をまとめ、教授陣に持ち込み宣伝し、さらに企業に営業をかけるということを続けていた。この様だけ見れば駆け出し起業家のようであるが、実際かなり近いのかもしれない。最終的にことは割とうまく進んだ。偉いおじさんを味方につけるのは生存戦略として大事である。

研究1年生の成績は査読付国内・国際学会発表2,賞罰1,査読論文1ということであまり振るわなかった。

 

趣味が無いのは良くないということで1年を通じてFPSに相当な時間を費やした。様々ゲームに手を出したが、APEXとValorantが主であった。小学生のころにハマっていたメイプルストーリー以来ゲームはやっていなかったがこれが思いのほか沼であった。

ハマった要因の1つはPvP(Player versus player)だったことだと思う。APEXであれば画面の向こう側に同時にプレイしている59人の人がおり、その中で1位を争うという形式が競争心を明らかに掻き立てた。2つ目に周囲にそれらゲームをプレイする友人がいたことだった。Discordでは社会人のはずなのに昼間からプレイしている者や深夜から初めて朝までプレイする者がおり、これには相当生活リズムを破壊された。楽しかったことは間違いない。それから台パンは険悪になるのでやらない方がいい。 

結局、APEXはプラチナ3、Valorantはシルバー2が最高だった。継続しかつ多くの時間を投資しないと上達しないため、恐らく受験勉強よりも修業的要素が強かった。費用対効果は最悪である。遊びにリターンを求めるもんじゃない。

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プラ4の沼は深い

 

2. 有機的なこと

年を重ねるごとに人間関係に恵まれていると実感する。短気で暴力的で金遣いが荒く酒と博打に明け暮れるような家族ではないし、友人はこの奇特な性格を理解しているかは別にしても大きく否定はしない。知らぬ間に他人を傷つけているような人間ではあるが、それでも友人が0にならないのは奇跡である。もっとマトモになりたいと思うのだがどうもうまくいかない。その結果の正拳突きである。

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ネテロ推し。

 

研究していると自身の興味の追求に至る一方で、その社会的な影響・含意を考慮する必要がある。特に私の選考する分野は最終的なゴールがpolicy implication(政策的含意)であることも多く、「その研究何の役に立つの?」というのがご法度な分野とは異なり、むしろ社会のために役立つのかを常に考えている。そうすると俄然どこかで社会の役に立つような研究をしたいという気になる。好奇心と政策的含意のバランスの上で研究をしている気がする。

 

随分前から薄々勘づいておりそして今となってはもはや前述のとおり自明なことではあるが、自分は愚にもつかない人間である。そういった人間が能力的にも環境的にも研究して良いし尚且つそれが社会のためになるようなものであれ、という制約を与えられたとき、没頭するほかはない。家族や友人らからも研究を奨励され、研究の話をすれば興味を持って聞いてもらえ、しかもそれ自体自身の興味から発するものならなおさらである。

実際、研究している自身の様を支援されることは、自分自身に向けられる好意よりもはるかに嬉しい。

 

これは研究テーマの変更にも大きく関与した。学内学外の研究者に多く接するにつれて彼らに共通するのは、ある対象への常軌を逸した好奇心も含む、一種の精神論的な熱意と情熱であった。実際、ごく一部の能力的に突出した者たちを除けば、研究の大部分を担っているのはこういった情熱を持った人たちなのだと思った。研究する時点である程度の能力があることは当たり前なのだから、その中で差別化されるのは精神的な部分に依るのだろう。これが一部の過度な労働をもたらすのだが。

 

しかしこれに相当参ったのである。特に悩んだのは自らがそういった情熱を心底注ぎこめるものは何かということを再考する必要があったからだ。少なくともそれが夏休みの時点である。

経済学のモデルや考え方への興味と熱意、またそれを扱う能力についてはある程度自分の中で客観的な合意があった。けれども、特に熱意を持って取り組めるものは何か。具体的にコレといえるものが見当たらなかった。

正しいか分からないけれども正しいと信じるだけの勇気があるだろうか、というのが悩みだった。なぜなら、一度信じてしまえば裏切られても分からないからである。

 

くさいセリフだが結局我々は人間の世の中に生きているのである。これからどうにか逃げられないかと思ったことは数えきれないが、どうしても逃れようがない。やはり仙人になることは難しい。人を傷つけるのも人間だが救ってくれるのも人間である。冒頭に戻るがこういったときに自分を客観的に評価し、たまに指針を与えてくれる友人・知人に恵まれていた。

結局私の興味は、人の生き死にだったり、病苦だったり、精神苦や自殺だったり、そういった一見後ろ向きなところにあった。そしてそれをどうにかできないかという一種のパターナリスティックな介入だった。全くもっておせっかいである。

 

確かに、恥ずかしながら振りかえってみれば医師になろうとしたものの学力や体力が足りず、それでは動物をと獣医師になろうとしたが猫アレルギーでとん挫した。薬剤師もいいかと思ったが、6年通って調剤薬局にずっと勤めるのは向いていないかな~と思いつつ、弁護士や公認会計士のような士業には興味が持てなかった。最近亡くなってしまったが、中村哲氏を知り感銘を受け、けれど遅すぎてやはり医師への進路変更は不可能だった。

 

今研究していることもそうだが、そういった生き死や病苦や自殺などは確かにセンシティブな問題であるが、しかし医師や薬の配分の最適性を議論すればもう少しマシになるのかもしれない。新薬創生への最適な補助金や特許政策はどうだろうか。どうして経済苦で人は死ぬのか。今回のコロナはどうなのか。案外、研究でどうにかなる話だった。

経済学の定義は難しいが、最適資源配分と選択の意思決定の学問だと思う。ネガティブなことに目を背けがちだが、残念なことにいずれ自分の問題となることであり、社会的にももう少しマシにはならんものかね、ということで熱意をもって取り組めると思った。

そしてなにより、後ろ向きなことに前向きに取り組むというのは、捻くれた自身に最も合っていると思った。

 

3. その他(12/16)

人は忘れられた時に死ぬというのは某アニメのセリフだが、忘れたときもまたそうなのかもしれない。

先日、祖父が入院している病院に行った。認知症ということで日常生活がままならないということらしい。残念なことに多くの人間関係を忘れてしまい、孫である私がまだ認識できるうちに会いに来いとのことで急いで帰省した。

病院は山の上にあるいわゆるサナトリウムのような場所であり、市街部から随分と距離のある所であった。件の感染症で数年ぶりに見た祖父は別人のようであった。車いすに腰掛け何を言っているのか分からない様に以前の健脚な祖父の面影はなかった。

他の精神病患者も多く入院していること、感染拡大を防ぐこと、祖父の身体的負担、などを理由に面会は30分程度隔離された部屋でのみ許された。話したことは祖父の大学時代の話や死んだ兄弟の話などが多く、どうやら昔話や兄弟の話をするのは認知症患者の傾向らしい。

 

会話もそこそこに写真を撮り、帰ろうかと握手したとき、果たして祖父はおもむろに私のことを認識した。握手は以前から祖父と別れるときに必ず行っていた。どういう仕組みか分からない。しかし祖父の言った言葉は確かにそれが偶然ではないことを理解させた。「しっかりやれよ」というのは毎度私との握手のたびに言う台詞だったからだ。

こういった逸話的な事柄にはめっぽう弱い。

もう一人の祖父は私が留学中に他界した。大学入学時にやはり先が長くないということで会いに行った際、私の大学合格を聞き「たいしたもんだ」といったのち、卵アレルギーなのに持参したプリンを完食していたことをよく覚えている。(それで容体が悪化したのかどうかは知らない)

 

優しさは渡せないのに貰えるという。渡した本人も気づいていない。

望みは望まない事 僕が知らないうちに 君のためになれる事

来年はもうすこし「しっかり」やりつつ優しい人間になりたい。

 

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(新聞の社説みたいな文体だな)