ついに迷走を始めました

ブログ書くんだってよ 

また卒業したんだけど

2023.3.31

内省

学部を卒業して正体不明の怪文書をここに投稿してからもう2年が経ったらしい。時間の流れが早すぎると感じる。久しぶりに当時のブログを読み返して、なんでこんな読みづらい文章書いてるんだコイツは?という気持ちになった。頑張って言語化しようとしたらしいが、上手くいかない様を黒歴史として残しておくのは成長の記録として面白い。

 

先日、2年ぶりの卒業式というのがあった。というか厳密にはあったらしい。朝起きたら卒業式の開始時刻だったので、早々に参加はあきらめた。前日に学部時代の指導教員と飲んでいて随分と深酒をしたので、あーこりゃ卒業式は参加できないなと思っていた読みが当たった。正直、参加するつもりもなかった。卒業式の会場は遠いし、もう誰も知り合いはいない。

 

さて2年間の間に何があったのだろうか。まとめてもいいんじゃないの?少なくとも文章を書く能力は多少身についたんじゃないかしら、と思っている。

 

研究

だいたいこれ。

2年前を思い返したときに何が身についたのかと思うと1つは"見る目"がついた。これは色々な論文を読んでいたおかげかもしれないけど、良い研究と悪い研究というのは明確に存在する。そんで新しい論文を読んだ時に、あ~これは良い研究だなとか微妙だなぁとかいうの分かってきた。

というのは、経済学だとジャーナルに載せる前にworking paperという形で論文のpdfを一般公開することが多い。working paperを読んだ段階でこれは良い!と思ったものがその後トップジャーナルとかに載ったりすると、自分の審美眼は合っていたなと検証できる。

そういう経験を2年間の間にやっているうちに相場が分かってきて、何をしたらウケるのかとか、何が問題で解決した方が良いのかというのが分かってきた。

こういうのはおそらく業界の相場感なのでこれが身についたということである。

 

転換

時には思い切った方向転換も必要である。

方向転換ができないのは、経済学的に言うとサンクコストがクソデカな状況である。ここまで頑張ってきたのに、そこに投入した時間・お金を無駄にしたくないということである。方向転換したってうまくいくとは限らないしと思っちゃう。もっとも、現状のままでうまくいく保証もないのだが。

M1の秋に研究テーマを1からやり直すという決断をした。"決断”という大層なものではなかったが、それまで1年弱の分析結果がパーになった。どうもこのままでは先が見えないということでの方向転換だったがこれが正解だった。そのおかげか知らないが、今日まで変更したテーマの延長と拡張でいくつかの研究が出来ている。

もっと考えればそもそもB4からM1で研究室を変えている。これに関しては分野ごと全く違う研究室に移った。概ねうまくいったからよかったものの、一部の人からは後ろ指をさされていたらしい。だから何だという話だが。

(少なくとも現段階では)成功だったこれら方向転換の何が良かったのかと思ったときに、ノリで決めたからよかったんだなと思っている。割と本音である。

ここでは、直感的に良いと思ったときの行動をノリと言っている。

 

自分自身のことを自分が一番分かっていなかったりする。けど、ごくたまに「これが良い!」とか「なんか違う!」とかいった直感が降ってくることがある。これをいかに検知できるかどうかが大事なのかもしれない。自分の感情のわずかなサインを見逃さないようにしようということである。結果的に直感に従った方が楽である。

どういった意味で楽なのかは知らない。少なくとも心理的に楽になることは間違いない。もちろん金銭的には苦しくなるかもしれないけどそれを補完できるくらいに心理的な安寧は重要である。修士の間、まともで安定した収入源はなかったけど心理的にはとても楽だった。興味のあること調べていれば褒められるなんて幸せじゃない?それはまた別の話。

 

思考

つまりはどこまで考えるのかという問題に帰着する。

一方でノリだけで生きるのは単純な思考放棄だけど、もう一方で全ての行動・行為に原因と結果・因果関係を求めて行動するのは随分過激な気がする。そして恐らく俺はそんなに賢くない。

大体、起点はノリの方が良いと思う。何かを始めるにしてもノリで決めちゃって、後から考えるのでいい気がし始めている。ずっと考えていたらいつまでたっても同じ場所にいる気がしてきたから。

何を考えて何を考えないべきか、という建設的な思考放棄の方法について考え始めるようになった。その結果が、とりあえずノリで始めてみて後は考えてダメそうなら撤退戦略になった。

 

恐らくこうなった原因は、考えてもどうしようもない状況というのが人生を大きく左右するんだなということを少しずつ感じるようになったからかもしれない。

それはコロナかもしれないし、大学院というちょっと変わった環境のせいかもしれない。もしくは、親しい人の死かもしれないし、朝起きたら突如故障していたiPad Pro 12.9のせいかもしれない。昨日まで使えていたiPadは今日にはただの冷たい板になっていた。Apple storeに持ち込んだが、補償外とのことらしい。Appleの補償サービスはもう少し手厚いものであってほしい。

個人が考えて行動したことが、個人の結果にどれほど反映されているのか。恐らくそんなに大きな割合を占めないんじゃないかという気がする。一方で、思考をしないことは明らかに差を生む。自分自身の人生を真剣に考えて生きている人とそうでない人の話す言葉は全く違う。でも逆に言えばそれくらいの微妙な差なのである。考えることを過大評価して頭でっかちにならないようにしたいな、と思う。

 

興味

直感は興味に直結する。自分は何が好きで何が嫌いなのか。

話は戻る。一番初めに研究テーマを決めるとき、好きなことをやれと言われてさっぱり分からなかった。きわめて特殊な状況だけど研究テーマは(1)自分がやりたいこと (2)自分ができること (3)分野にとって価値のあること の交差するところで決まる。

(2)や(3)は割と分かりやすい。2)自分ができること、というのは例えばコードをどれくらい書けるとか、数式がどれくらい読めるか、といったことだし、(3)分野にとって価値のあること は論文読んでりゃだいたい相場感が身につく。実際、これは2年間でどうやら少し身についた。

結局、(1)自分がやりたいこと、に行きつくのである。

残念ながら、俺の代わりに研究してくれる俺はこの世に存在しないのだ。

だから考えるのは俺しかいない。

 

自分のやりたいことをどう見つけるのか。直感から生まれるノリで決めてしまえという話だった。じゃあノリを生むその直感はどこから生じるのか。おそらく、考えた結果なんだろうなというのが最近考えていたことである。これって卵が先か鶏が先かの話になってない?多分なってないよ。

 

規律

直感は体系化された思考なんだろうというのがこの記事のパンチラインである。

あれこれ考えて、考えても無駄かもしれないけど考えて、そもそも考えた方がいいのか分からないくらいごちゃごちゃになった状態がある日何かのきっかけで整理されたときに、それが直感となってポンと出てくるんだろうな、と思った。だからやっぱり思考する価値はある。そして、だからこそ戦略的な思考放棄というのを考える価値がある。

ある日やってくるその何かしらのきっかけは事前にはわからない。いつやってくるかもわからない。けど少なくともこの2年間で何度かあったことを考えれば、全くないわけじゃない。

 

それ考えてどうするの?という言葉が気に入っている。考えても無駄じゃない?と言っているわけではない。それはまた別の問題。

それ考えてどうするの?と言われて明確な答えが出せないのなら、それは自分の中で体系化されていないことになる。

それ考えてどうするの?と言われて明確な答えが出せるなら、それは自分のなかで十分体系化されているのだ。

それ以上考える必要はない。少なくとも今は。もちろんそれ以上考える価値はあるだろうけど。ただ、今何か行動を起こすなら、その時点で十分に体系化されたその結果に基づいて行動してみればよいのだ。問題が生じたらまたそこでウンと考えればよい。

 

だから常にそれ考えてどうするの?と自分自身に問いてみる。それが1つのバロメータになっている。そのうち直感となった体系化された答えが出てきたとき、それを絶対に逃してはいけない。それが自分の興味であって、信念であって、自分の好きなものになっているはずだからだ。

 

応答

2年前の記事は、自分自身が代替可能な気がしてけれどもそうではないと信じるための手段として思考を選択する、といった趣旨の記事だった。残念ながらまだまだ代替可能な人間ではあるし、それを受け入れ始めるくらいになってしまったと同時に、なってみろという自信もある。

何が変わったのか。2年経つと思考の使い方がもう少し具体的になった気がする。それは漠然とよくわからない自分自身を信じるための手段から、自分以外の興味の対象を探す手段へと変わったということだ。興味の対象は自分よりも外に向きつつある。