ついに迷走を始めました

ブログ書くんだってよ 

おうちWork

何故だかブログを書いている。

 

例のアレのせいで大学は当面の間閉鎖ということになり、当然図書館に行くこともできなくなった。

例のアレが問題化するまでの生活はどうだったか。

 

栄光ある孤立」を貫くという謎の信条と出不精な性格が相まって普段から外出することはなく、外出する目的といえば大学・必需品の買い出しくらいしかなかった。

ごく稀に私を飲みに誘おうという奇特なニンゲンが連絡をよこしてきて、「こういった機会を大切にせねばなるまい」とノソノソと家を出る以外はやはり基本的に家にいるような生活だった。ところで「大切にせねばなるまい」と思いながらしかし自分からは交流をしないのである。なんと都合の良い。

 

しかしこうやって考えると、現在の自粛状況でもあまり大差のない生活が送れそうなものだが実際はそうでもない。

最も重要でかつ隠されていた事実というのは実のところ「移動」にあった。

 

大学に行くにせよ、買い出しに行くにせよ必ず移動しなくてはいけない。例えば私は家から大学まで片道1時間弱かかるわけであり、往復で1日少なくとも2時間を移動に費やしている。

移動している時間というのは基本的に「死に」である。

電車で移動するなら車内で本を読んだり、パソコン作業を出来るかもしれないがそれでも職場や普段従事する環境で行うよりは効率が劣る。

自転車や車で移動するならましてやである。

 

しかし「死に」を生む移動も実際のところは緩衝材となっている。

人間は3時間も4時間もぶっ通しで集中は出来ない(少なくとも私は)もので、そういった移動による「死に」は都合の良い転換点となっている。

大学に通わねばならない状況で、こういった移動による死に時間はいわゆる不可抗力であり外生的なショックである。

避けられない制約の中でいかに振舞うかというのは常に考えることであるし、こういったことを割と自然な前提として行動している節がある。

しかしこの普段接する「死に」が無くなってみてはどうか?

 

在宅勤務は移動がない。移動が無いので死に時間も生じない。

普段費やしている2時間はそのまま別のことに使えるようになる。2時間多く睡眠をとっても良いし余暇に費やしても良い。

非常に「効率的」に見えるが実際のところ非効率なのではないかというのがここ数週間の所感である。もっと言えば「死に」だと思っていた2時間はかなり効率的に使われていた。

ところで、効率的という言葉の扱いは非常に難しいのでここでは「良い」くらいの曖昧な定義にしておく。

 

何度も述べているように「死に」がない自宅作業において、やるべき事とそうでないことを意図的に区別する必要がある。

コアタイムがきっちりと決められたリモートワークならまだ状況はましである。

しかしそういった外的圧力がない状況で、朝同じように布団の中から出て作業に向かうというのは割と心憂い。

在宅作業では生活と作業の境界が連続的になりどこまでが私的でどこまでが公的なのかというのが区別しづらい。むしろ私的領域に公的な部分が侵入してきているといった方が正確かもしれない。

机で12:59まで昼食を取っておりその一分後には作業に戻るというのは時間の上では効率的だが果たして集中しているかといわれると疑わしい。

夜はオンライン飲み会をするその机で昼は試験勉強をする。その境界をどこに設定するかという判断は自分自身をどれだけ非情に扱えるかという能力を要する。

大学までの1時間はそういった不可避の切り替えという意味があった。

 

加えて、「死に」時間は時間の可視化の役目もあった。

今から家を出れば大学には何時に着くというのはすぐに計算できる。逆算すれば何時間大学にいて作業できるかという事もわかる。

在宅ではどうだろうか。移動による「死に」時間がないので与えられた2時間は全て作業に投入できる。しかしその分自由に扱える時間は多くなり明確に何時から何時までが作業時間であるという逆算がしづらくなる。

前述したように私は3時間も4時間もぶっ通しで集中できるほどの能力を授からなかったので、自由に扱える作業時間が増えたところで必ずしも能率が増すとは限らない。

与えられた時間が長くなるほど日ごとの能率のブレは大きくなり推定がしづらい。

扱える時間は短いほど、より詳細なスケジュールが立てられる。

 

ところで、実のところ与えられた2時間の半分も作業に投入していないのが実状である。

2時間の使い道というのは、不可避の行動の結果ではなく自らの判断で行っていることであり、その意味で毎日変動する。それ故に「いつも」何時間作業するといったような指標が作りづらくなり、どれだけ集中していたかが曖昧になる。

 

実は在宅の方が「非効率」ではないかというのはこの点にある。

外的な切り替えの欠落に加えて、内的な甘えが顔を覗かせるからだ。

 

 

こういったことを考えれば、在宅での作業は「その場その場に応じての最適化」が解なのかもしれない。しかし当然これはそのたびに状況を考え直す必要があるしその分の労力を要する。そしてその度にありていに言えば自分にストイックである必要がある。

 

もう一つは今までのように外的圧力を作り出すことである。

意志薄弱な私にとってはむしろこの方が考えることは少ない。同じような外生的ショックを与えてそうせざるを得ない環境を作り出す。

 

しかし、このような薄弱な意思で良いのだろうか?

もっと主体的な意思決定で行動するべきではないのか?

人間は与えられた"理性"の下で意思をもって行動するべきではないのか?

 

 

 

 

う~ん

 

 

 

どうしたものか。

 

 

 

 

屋根裏に引っ越しました。

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環境変えるのが一番。