ついに迷走を始めました

ブログ書くんだってよ 

卒業に際して

・何故、自分自身の考えを表現するのか。大抵の場合、自分と異なる思想信条を持った人間がそれを表現したとき、我々は多かれ少なかれそれを拒否する。そういった軋轢を生むに勝る理由は何か。1つの解答は、自分自身の言葉で表現する土壌を失うと誰かの尤もらしい言説を借りてきて、借りた誰かの言葉だけで自分自身を表現し始めるからだ。そうなるといよいよ誰が誰の人生を生きているのか分からなくなる。果たしてそういった人間は自分自身から見ても他人から見ても面白い人間なのだろうか。面白くなくとも、代替可能な人間になるから自分が他人でも良くなるし、自分と他人の差異が見えづらくなる。考えを表明することは他人との境界を明確にする作用がある。同じ出来事を経験しても違う事を感じるならそれが他人との差異である。差異が内生的でなく、仮に外生的であったとしても、それを表現することで、鏡のように自分が違ったという事を再確認する。つまり、もし自分と他人という2つの主体が存在すると信じるなら、考えを表現することは他人とは異なる自分自身を信じることと同義である。果たして自分はどれだけ自分自身を信じられるかという問いに答える手段の1つが自分自身の考えの表現である。どれだけ自分自身を語ることが出来るのか、それがどれだけ自分を信じているかということになる。ところで私は他の誰かだったのだろうか。

 

・今日、同じ大学を卒業した人は約6000人いたらしい。同じ学部でも約1000人存在したらしい。過去にさかのぼれば、同じ敷地で同じ講義を受けて同じ学食に通った人間が数多存在するわけで、自分は何が他人と代替可能で何がそうでなかったのか。5年間の学部生活がどの程度自分自身の存在を信じさせるに値したかという事を検討したいと思った。むしろそうせず無視していることに違和感があった。卒業という与えられた機会に何が楽しくて何を成し遂げたのかを列挙する前に、自分は何を考えていたのかを示しておきたいと思った。そうして5年間の自分を信じないと、その期間の出来事も信じられないと思った。

 

・信じることは裏切ることに関して盲目になることと殆ど等しい。裏切られてもそれに気づけないからだ。自分が自分自身を裏切っている状態を無視できるのか。自分の中に矛盾があってしかしそれに直面しようとしたときに、真正面から向き合っても答えが出ないことは多々ある。多少ズルをして目をつむって曖昧なまま意思決定をしたところで、私は私を信じていただろうか。さらに、真正面から向き合っているつもりでも真にそれと向き合って答えを出したのだろうか。

 

・根拠があるという仮定が、存在すると仮定した自分自身を見失わせていたのではないか。何事も原因と理由という因果律で考えて、殆どの事柄において何故と自問し続けた結果ではないか。偶然生まれてきただけの存在に、理由を求め続けた結果、自分を認められなくなったからではないか。根拠のない自信に根拠を求め続けた結果、自分自身が見えなくなってしまったのではないか。決まった答えなどないのだから自分で答えを作るしかないという事に気づくのが遅れ、あたかも答えがあるように探し求めた結果だった。答えは見えないし主体なんてものは存在しないと痛感した。自分のどこかに司令塔がいて、彼の意思決定を探ることは無意味なのだと感じた。正しさや善さがある時代の流行でしかないように、1人の生きる人間もまたその流行の中で漂う生き物でしかない。頭の中の中央当局を探すのではなく、今ある自分をどれだけ信じられるか。固定された主体性と普遍的な思想は見えないし存在するかも分からないのに、あるのだと考える神話で生きているのが今の流行りなのだと感じた。

 

・結局、卒業に際して私はそこにいたのだろうか。観察的な事実と主体性神話の下ではそこに存在しただろう。しかし毎度のごとく私はそこにいなかったのだと思うし、いなかったように感じる。そしておそらく、何がここから卒業したのかはおそらくずっと分からない。けれども、自分と同時に存在する他人が卒業できたことは確かだろう。不確かな主体の代わりに確かな偶然があったことは事実だろう。信じられない自分の裏に確かに信じられる偶然が存在していて、"不確実"な偶然よりむしろ確固たる主体に対して盲目になることで、自分自身の5年間を信じることが出来るのだろうと思った。