2月の第三週は学校がお休みでした。
なんでもflexible weekとか言って自習するための期間だそうです。ついでに課題もちょっと多めに出てたりするのですが。
しかしいくら多いといっても一週間かかるようなものではないので、ヨーロッパ諸国を回ってきました。
具体的にはエストニア、ドイツ、ハンガリーです。物価が安い2国で多少でも豪遊しようという算段です。結局貧乏性の極み、物価の安い国でも同様の財布のひもの固さだったのですが。
かといって詳しい旅程とか、何を見たとかどうしたとか、別に書いても良いかもしれませんが、さほど面白くもなさそうなので時系列で追って紹介するより、気になったトピックだけ掻い摘んで今後のネタとします。そのうちやりますよ、ええ、そのうち。
今回の三か国においては、いずれもその国の首都を巡ったわけですが、どの国も治安がよろしく特にこれといった危険を感じることがありませんでした。
中欧、東欧と呼ばれる国々でやはりヨーロッパに初めて行くという場合はフランスやイギリス、スペインといった国に行く人が多いのではないでしょうか。
いわゆる西欧諸国を見てから、私の場合は滞在してみてから見る中欧、東欧というのは割に新鮮で面白みのある国々でした。この場合面白いというのは酒をしこたまのんで夜遊びするということではないのですが。
一般に物価の安く、西欧諸国に比べると近代化の遅れた国が多い東側諸国は少し懐かしささえ感じられました。ベルリンは大都会で例外ですが。
観光する際にその国の経済力がどれほど関係するかという話です。
そりゃド底辺経済学部生でも旅行前にウィキとかよんでGDPとか調べてみたりします。ハンガリーって経済弱いんだなぁとか、なんでEUなのに独自通貨使ってるのかなぁとか考えます。エストニアってどんな産業が盛んなんだろうかとか。
首都ブダペストも少し郊外に行くとまるで荒野行動のマップのような世界だったり。
でも実際経済力が高いから観光不向きかというと全く違うわけで。というかほぼ関係なかったり。
観光してる外人の我々からしてみれば、非日常を楽しみにやってきてるわけです。お宅の経済力なんて知ったこっちゃないから、とにかく我々が楽しめればいいのです。
こんなことを考えていたら観光がとても独りよがりに思えてきて、途中から楽しくなくなったりしたり、しなかったりしました。
思えば、大学に入る前の春休みから大学2年生までの間のあの熱狂的な旅行欲と写真欲は何だったのだろうかと最近思います。
とにかく知識だけ詰め込んで、何も行動しなかった高校時代の反動で無性に動きたくなったのでしょうか。
39℃の熱があるのに無理やり京都に撮影に行ったり、青春18きっぷで西日本、東日本を縦断してみたり。
当時は狂気ともいえる行動力と旅行欲に侵されていたような気がします。
何故かと考えてみたときに、圧倒的に知識が足りないのです。ヨーロッパに関する。
ドナウ川を見て地理で習ったな~とか「美しく青きドナウ」とかあったなぁくらいの知識しかないのです。
実際ベルリンは舞姫の舞台だったり、ナチス好きからなる知識で多少楽しめましたが、それでも1日あればその聖地巡礼も終わってしまう程。
せっかくヨーロッパにいるのだから安く旅行できるぞと思っていましたが、実際見て回ると想像以上の興奮が無いことに若干興ざめしているのかもしれません。
加えて、そのヨーロッパにいるこの状況を活用せねばという一種打算的な思考による束縛がありました。
旅行したいと思うより、このヨーロッパにいるという状況を生かさねばという義務感に追われ旅行させられているような気分にもなりました。
自由な思いつきで旅行しているというより、まるで出張しているような。
そして今最も行きたい国はカンボジアだという。
結局、ないものねだりで隣の芝が青いだけなのです。
日本にいるときはヨーロッパに旅行したいと思い、一方、ヨーロッパにいるときはアジアに旅行したいと思う。アホだなと思いつつも実際そうなんだからしょうがない。
ヨーロッパのシンプルで整った石畳の街並みが良いかと思えば、アジアの一種混沌としたアスファルトの街並みが良いとも思える。
ヨーロッパの街並みや大聖堂やその他観光地や、どこに行っても似たり寄ったりに見えてしまいます。実際そうかもしれない、驚くことも少なくなってしまいました。
こちらは無神論者でかつ世界史もまともに勉強していない人間からすると宗教画や大聖堂の意味するところが解らないというのが実際のところです。
また、自分の生まれた国とは数千キロも離れたところで知らない誰かが死んだときに何も思わないのと同じかもしれません。究極の無関心もあるのでしょう。
「英国の美術館、博物館は多くが入館無料でトイレやwifiやソファーを提供し、加えてカフェも併設しており非常に便利だ。問題点は展示品の意味がよくわからないということ。」と言ったものですが、まさしくその通りです。
悲しいことに、知識知恵の欠如から折角のヨーロッパも非常にありがたい宗教画も私にとっては意味が解らないのです。これが非常に残念で悔やまれる。
エジンバラに来てから写真を撮っていて思うのは、その表面的な部分しか見ておらずまたその表面的な部分しか伝えられないという虚しさです。写真にそれ以上のことを求めるのは求めすぎなのかもしれませんが。
特に、ヨーロッパ諸国に関する理解の浅さと打算的旅行によってそれは増長します。
日本で生まれ育っている関係上、日本で写真を撮るのであれば何にどれだけの歴史があり、何が重要でということは大抵の事柄についておおよそ知り得ます。
こちらに来てから写真がうまく撮れない理由の1つはそれかもしれません。
表面的には綺麗で荘厳な大聖堂や美しいという夜景もそれしか見ていない、それに関する歴史や理解が一切ない状況では写真を撮っても楽しくない、というより何が良いのか理解できない。
どこに注目して良いのかわからない以上写真が撮れないというのはあるかもしれません。
結局、建築的な珍しさや日本ではお目にかかれないような景色を撮ってみたりするものの、その写真にはそれ以上の意味はないわけです。
いよいよ記録写真以上の意味をなさなくなってしまします。
撮っているんだか撮らされているんだかという倦怠感のみが残る写真が出来上がります。
いわゆる観光スポットの写真を撮って回るだけで、おおよそ文化的な文脈からの発見による写真というものが一切ない。
旅行というのは知識が溜まって、理解が深まって、そうしたいと思ってからするのが一番良いのだと気づかされました。
少し憧れていた「観光地での休暇」というのはどうやら自分には向いていなさそうだということもわかりました。余暇ならベッドで過ごすのが良いです。
「聖地巡礼」型の旅行が自分には向いているのでしょう。
それが分かっただけでも今回の旅行は意味のあるものだったのかもしれません。
何にでも意味を求めるのも悪い癖ですが。
いつか将来、エストニアに関する理解が深まって再訪したくなる時は来るのでしょうか。